パラカヌー瀬立モニカ “第二の故郷”とは
■”生きるモチベーション”だった東京大会
――東京パラリンピックでのレースを振り返って。
前回のリオ大会は8位だったので、そこから1つ順位が上がったのはうれしいですが、やっぱり金メダルを目指してずっとこの5年間体を鍛えてきたので、まだすごく悔しい気持ちでいっぱいです。
私がケガをして車いす生活になった時に東京パラリンピックの開催が決まっていて、この大会が私の生きるモチベーションでした。この大会があったからこそ、前向きにずっと生きてこられたので、希望の大会でした。その舞台に地元出身者として立つことができて、本当に選手冥利(みょうり)に尽きる幸せな大会だったと思います。
――新型コロナで開催が1年延期。そして無観客での開催となりましたが?
たくさんの人がCOVID-19(新型コロナウイルス)の影響を受けている中、自分たちだけが競技をやっていいのかという思いも選手としてはあったんですが、それでもたくさんの方が尽力してくださって大会が開催できたので、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
リオ大会で地元選手への大きな声援を聞いた時、東京大会でもこんなふうに盛り上がればと思ったので、無観客開催が決まった時は本当に残念でした。でも、インターネット中継で全世界に発信されて多くの人が見てくれたので、今回新しい1つの観戦方法が増えたように思います。
■沖縄での合宿と、現地の人々との交流
――沖縄でトレーニングされていたんですね?
2019年2月から、1年の半分は沖縄の大宜味村で練習をしています。水質など大会本番の環境に近い場所を探して、塩屋湾を選びました。世界自然遺産にも選ばれた湾で、海の透明度も高く気持ちのいい場所です。
大宜味村は人口3000人くらいの小さな村で、パラの選手が使いやすいようなアクセシビリティーは整っていなかったんですが、私が車いすでも海に出やすいように、村の人たちがスロープを手作りしてくれました。海水で劣化してしまうので、合宿が終わったら撤去して、私が沖縄へ行く時にまた付けてくださるんです。作る度に改良してくれて、どんどん使い心地が良くなっています。
練習を手伝ってくれるお礼に、私も村の人たちの髪を切ったりしました。「Barberモニカ」と呼んでいましたね。そんなふうにどんどん交流が深まっていって、今ではいい時も悪い時も支えてくれる、家族みたいな存在です。
――実は大宜味村の方々に、モニカ選手についてお話を伺ってきました。
宮城金一さん
「最初はやっぱり車いすだから、なんと話しかけていいか分からなかったです。機嫌を損なうと悪いので、あまり会わないようにしていました。今ではとてもかわいい子で、毎日練習を手伝っていました。変わっていったきっかけは、やっぱりモニカ選手の笑顔ですね。綺麗な笑顔です」
石垣和美さん
「塩屋の人たちって、どちらかというと引っ込み思案なんだけれども、彼女の笑顔でみんなが集まり、村がひとつにまとまった感じ」
知念章さん
「合宿を終えて東京に帰る時には、みんな“モニカロス”的な感じで。アイドルでしたよ。みんなのアイドル」
宮城望友さん
「朝早くから練習されるので、子どもたちは学校へ行く前に『モニカさん頑張れー』って大きい声で応援したりしてました」
宮城陽乙くん(3歳)「大好きです」
――いかがですか?
本当に知っている人たちばかりで、うれしくなっちゃいましたね。陽乙くんには「結婚しよう」と言ったんですけど、東京に来てくれなかったです。
パラリンピックが延期になった時も沖縄に行きましたし、村の人たちの一言で落ち込んだ気持ちが変わったりして、第二の故郷というか、もう一つ帰る場所ができたという感じです。
■「キジムナー」の笑顔の秘密
――現地では「キジムナー」と呼ばれていたそうですね?
はい。「キジムナー」は現地で妖精という意味です。村では塩屋湾には妖精が住んでいると言われていて、私がその妖精みたいだということでそう呼ばれていました。
――村の人たちを魅了したモニカ選手の笑顔。「笑顔でいること」へのこだわりは?
私がケガをして車いす生活になった時に、母から「笑顔は副作用のない薬」と言われたんです。「自分が車椅子になって、こんな人生やってられないよと暗い顔をしていたら、誰も近付いてこない。自分が笑顔でいることで相手も笑顔になって、相手の幸せが自分にも返ってくる」という意味です。
はじめはあまり実感が持てなかったんですが、社会に出るようになって、そのことをすごく感じるようになったので、笑顔を大切にしようと心がけています。
■パラアスリートとして 次の目標は?
――障害のある方々にとって、どんな社会にしていきたいですか?
東京パラリンピックは自国開催のビッグイベントで、たくさんの人に見てもらうことができたと思います。これをきっかけに、障害を持っている人や自分とは違う人たちを、身近に感じてほしいと思っています。例えば電車で困っている人がいたら「手伝いましょうか」と声をかけるきっかけにもなるし、身近に感じてもらうことが共生社会を目指していく上でひとつのテーマかと思います。そのために、選手村での様子などを、私もツイッターで発信しています。
――今後について。
今回の大会でこういう結果になり、メダルを獲るまでは終えられないと思うので、カヌーは続けていきます。それと並行して、「医者になりたい」という思いが強くあるので、医学部に入るための受験勉強を、これから始めます。いばらの道だと思うんですけど、自分が生きる使命だと思うので頑張りたいと思います。東京パラリンピックでは、たくさんの応援が私の背中を押してくれました。これからも私のアスリート人生は続くので、ぜひ応援していただけたらと思います。