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平壌宣言の日 拉致被害者が会場近くで待機

2021年9月19日 11:53
平壌宣言の日 拉致被害者が会場近くで待機

19年前の日朝首脳会談の当日、拉致被害者の蓮池薫さんらは、首脳会談の会場の近くで待機させられていたものの、出る幕がなく終わりました。「もし(会談を終えた)小泉首相と面会していたら、その後の展開はなかった」と蓮池さんの家族が振り返りました。

■田中均氏が「ミスターX」と水面下交渉 山場は2002年5月

2002年9月17日に北朝鮮の平壌で、小泉純一郎首相と金正日総書記による日朝首脳会談が行われてから19年。日朝平壌宣言が結ばれたものの拉致問題は解決せず、両国関係はこう着したままです。こうしたなか、日朝問題の専門家らが集まり、20年を迎える来年に向けて日朝間の交渉を検証する会議を定期的に行っています。8月29日の会には、当時、小泉首相の下で北朝鮮との交渉を水面下で行った田中均元外務省アジア大洋州局長・外務審議官が出席し、首脳会談の実現までの舞台裏を明かしました。

首脳会談のちょうど1年前、2001年9月に田中氏は外務省のアジア外交を担うアジア大洋州局長に着任しました。この年、小泉政権が誕生。田中氏は日朝の国交正常化を進めることを決意。ひとりで首相官邸を訪ね、小泉首相と1時間にわたって面会しました。外務省の局長がひとりで首相と面会することは極めて異例のことです。この席で田中氏は、「日本は豊臣秀吉の時代から朝鮮半島を戦場にしてきた経緯があり、多大な犠牲を強いたことは間違いない。『(日本の植民地支配と侵略を謝罪した)村山談話』を作成した外務省側の責任者は私である」などと訴え、「朝鮮半島に平和をつくるため、対北朝鮮交渉の許可をください」と強く訴えました。すると小泉首相は、「朝鮮半島の問題は、人の命がかかっている。田中さん、貴方と俺だけでいい。秘密厳守の中でやってほしい」と応じたといいます。

田中氏は交渉相手を北朝鮮外務省ではなく、先例に縛られず「軍人」(朝鮮人民軍)としました。その理由を「相手の肩書や名前にはこだわらない。偽名でもいい。本質は金総書記を動かせるかどうかにかかっている。信頼関係を作ることが重要であり、人間的な触れあいにも配慮した」と語りました。その相手が「ミスターX」でした。水面下交渉は、2002年9月までの1年間で30回にわたりました。いずれも週末の土日に、場所は中国の大連や上海、東南アジアの都市でした。交渉は2002年5月に山場を迎えたといいます。

「二つの問題があった。一つは『拉致被害者に関する情報を訪朝前に公表する』という要求に北朝鮮が応じなかったこと。もう一つは、北朝鮮への賠償については合意していたが、北朝鮮が執拗に金額を明示することを要求したことだった。」と、田中氏は明かしました。水面下の交渉でこのハードルは越えられませんでしたが、この4か月後に日朝首脳会談は実現しました。

■北朝鮮にいる拉致被害者は山奥の「招待所」から平壌に転居させられた

「日朝国交交渉20年検証会議」には拉致被害者の蓮池薫さんの兄の透さんも参加しました。透さんによると、弟の薫さんは1978年に北朝鮮に拉致された後、特殊機関の管理下で長年にわたって、外部と隔離された山奥の「招待所」での生活を強いられました。しかし、薫さんと家族は2002年6月に突然、平壌市内にある高層マンションに転居させられました。田中氏と「ミスターX」の水面下交渉が山場を迎えた時期と重なります。平壌で薫さんは、北朝鮮当局に「自分たちがなぜ北朝鮮に来たか」というストーリーを考えるように命じられました。拉致被害者の身でありながら、それを隠さざるを得ず、「ボートで漂流し、日本海で救助された後、平壌で幸せに暮らしている」という筋書きを繰り返し練習したといいます。

しかし日朝首脳会談の直前、北朝鮮当局に「これまで考えていた筋書きは言わなくてもいい」と言われたといいます。日本との交渉によって、北朝鮮は「行方不明者」ではなく「拉致」を認めるという判断を下した「その時」とみられます。

■日朝首脳会談の日に、蓮池薫さんらは会場の近くで待機させられていた

2002年9月17日、平壌での日朝首脳会談。田中氏によると、会談にこぎ着けたものの、北朝鮮は拉致被害者に関する情報の事前開示に応じず、日本も経済補償の金額を示すことはありませんでした。「9月17日を迎えたけれど、この日はとてもしんどかった」と田中氏は当時の心境を語りました。

「首脳会談は午前中、北朝鮮側は小泉首相の話を聞く一方で何も話さなかった。自分はいたたまれない気持ちだった。小泉首相、安倍官房副長官と数人で昼食の提供を断り、盗聴防止のためテレビの音量を最大にして、持参したおにぎりを黙々と食べていた。その時、『この後何もなければ、席を立って帰りましょう』とみんなで話していた。午後の会談で金総書記は、一部の盲動主義者による行動として拉致を認めて謝罪。そして、日朝平壌宣言の締結に至った。」と田中氏は振り返りました。

実はこの時、首脳会談の会場「百花園招待所」のすぐ近くに、蓮池薫さんら拉致被害者が待機させられていたのです。兄の透さんが取材にはじめて明らかにしました。蓮池薫さんらは会場近くで待機させられ、北朝鮮当局に「用意した筋書きは忘れていい」と言われ、もしも小泉首相と面会することがあれば、「自分の親に北朝鮮に会いに来てほしい」と話すように命じられたといいます。

また首脳会談の前に、蓮池薫さんは北朝鮮当局に「日本への帰国」を打診されたといいます。しかし、「本音と建前」を区別して発言することが、北朝鮮での保身術とされるなか、打診された当初「日本に行く気などない」といった趣旨の回答をしたということです。

金総書記が拉致を認めた北朝鮮側は、日本側が拉致被害者との面会を求めたら、その場で応じる準備をしていたのです。しかし、日朝平壌宣言に署名した小泉首相は、生存と発表された拉致被害者5人にすぐに面会を要請することはなく、日本に帰国しました。

兄の透さんは、「もし拉致被害者5人が平壌で小泉首相と面会していたら、その後の展開はなかった。弟たちの呼びかけに応じて、私たちは『平壌詣で』をしていた可能性がある。」と複雑な気持ちを語りました。弟ら5人の帰国は実現したものの拉致問題が解決しないなか、透さんは「今なお続く拉致問題に関する混乱は、日本政府の準備不足による場当たり的な対応に起因すると私は考えている」と日朝首脳会談からの19年を振り返りました。

■写真:蓮池薫さん・祐木子さん(平壌郊外 1995年夏)