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東京大空襲…戦災孤児が生きた第二の戦争

2020年10月14日 11:52
東京大空襲…戦災孤児が生きた第二の戦争

戦争の『伝え手』が減っていく中、佐藤梨那アナウンサーが東京大空襲で、両親を失って「戦災孤児」となった女性からお話をうかがいました。

東京大空襲・戦災資料センター。空襲の爪痕を、間近に見ることができます。ここでは夏休みになると、戦争を後世につなげる講演会が行われています。

元木キサ子さんは、10歳の時に東京大空襲を経験しました。1945年3月10日。東京・下町一帯は、アメリカ軍の爆撃を受け、一夜で10万人ともいわれる命が失われました。

そこで元木さんは両親を失い『戦災孤児』となったのです。

元木さん「親の残った子どもたちは8月15日の終戦で戦争が終われました。戦災孤児たちは空襲で両親を奪われたときから、突然食べて生きるための戦争の中に放り込まれたのです」

戦災孤児は、全国におよそ3万人。ほとんどが、親戚に預けられましたが、それは必ずしも幸せではありませんでした。

元木さん「よその人がいるいないで、ガラッと態度が変わるようになりました。1対1になるとね、呼びかけても返事をしてくれない。そして、さげすみながら同じ言葉を言います。『身分を考えなさい』その頃の冠婚葬祭は、自宅でするのが普通だったんですね。親戚中から手伝いの声がかかります。親戚中の便利屋です。私が裏方の仕事でてんてこ舞いの時、その家のいとこたちは普通に通勤、通学していることに気づきました。愕然(がくぜん)としました」

「育ててもらった」という負い目もあって、親戚から受けた差別のつらさは、60歳まで誰にも話せなかったということです。

つづいて、講演を行った人たちは、戦争体験を語り継ぐ活動をしていました。

講演を行った高校生「(戦災孤児の体験者の話)東京へ戻るため、おばさんは再び私と弟を連れて船に乗りました。しかし実際にはおばさんは乗っていませんでした。私と弟は捨てられたのです」

高校生「今回、扱った戦災孤児や一般市民の苦しみなど、さまざまな切り口から戦争を考えてみて下さい」

講演後、改めて話をうかがいました。

中学生「過酷な状況下において過ごしてきたっていうことを知って、日々、あることが当たり前じゃない」

佐藤アナウンサー「元木さんはこういった戦争を知らない世代の学生がこういった体験を伝えるということについては、どのように感じられますか」

元木さん「これは本当にうれしいことです。体験した人たちがね、亡くなってしまって、今、私も小学校4年生の小学生が伝えてますよね。だから、伝えないで知らないで、またあの恐ろしいことを起こしてしまう、そういう危険をやっぱり感じます」

佐藤アナウンサー「こういった経験で得られたことというのはありますか?」

高校生「人それぞれ違う体験、悲惨な体験をされていて、毎回、新たな発見があって、体験者の方に直接聞くっていうのは本当に大切だなと思いました」

元木さん「生きてきた道を振り返ってみたときに、あまりにもその両親と一緒に育った人とギャップが大きすぎるんですね。だからそういう場面(戦災孤児)を国はつくっちゃいけないし、そういう場面に子どもたちを追い込んではいけない。絶対にいけない」

※この記事は、2019年8月23日 Oha!4で放送したものです。