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首里城“炎上の記憶”知られざる地下司令部

2020年8月13日 16:38
首里城“炎上の記憶”知られざる地下司令部

8月15日は、75回目の終戦記念日です。去年、火災で焼失した沖縄・首里城の地下には、戦争の記憶が残されていました。

◆爆撃された首里城…地下に残る“戦争の記憶”

去年10月、焼失した首里城。その姿は、人々に75年前の沖縄戦の記憶をよみがえらせました。

戦前から、文化の象徴として住民たちに大切にされ、日常に溶け込んでいた首里城。それがなぜ、狙われたのか……。

今月、1945年の首里への空襲映像が公開されました。首里城が爆撃される映像が見つかったのは初めてとされ、貴重なものです。この時はまだ、正殿や広場なども確認できます。

しかし、4日後には全体が煙に包まれています。実は、首里には日本軍の司令部が置かれていました。そのため、とりわけ激しい砲撃を受け、首里城も破壊され尽くしました。

しかし、その地下には司令官たちが指揮をとっていた「第32軍司令部壕(ごう)」が、今も残っています。

今年6月、その最も深くまでテレビカメラが初めて入りました。

最も深いところで地下およそ30メートル、長さは南北におよそ1キロ。確認されているだけで5つの入り口があります。しかし、入り口から150メートルほどの場所で閉ざされています。実は、司令部が撤退する時に爆破。戦後は崩落の危険から公開されてきませんでした。

中には当時を思わせる鉄カブトやシャベル、銃などがそのまま残されています。蒸し暑く湿った穴の中に、司令官など軍のトップをはじめ1000人を超す兵士などが潜んでいました。あの時、ここで何があったのか……。

◆司令部壕に動員された沖縄の人々

75年前、司令部壕の中にいた與座章健さん(91)。

與座さん「感無量だよ。こっちにね、二度と来たくなかったからさ。(戦後)初めて来るんだよな」

與座さんは当時16歳。少年たちを動員してつくられた「鉄血勤皇隊」として、司令部壕の中にいました。

與座さん「電灯はついていましたね、裸電球が薄暗く照っていて。天井からポツポツ水が落ちてくる。湿っぽい。暑い。外の空気を吸いたいなという感じ。そばからときどき、兵隊が通っていくけど、『おまえたち元気を出せ!』って尻を蹴っ飛ばすやつがいた」

壕の中には寝床や司令官の執務室もあり、要塞(ようさい)としての機能が備わっていました。今も残るトロッコの枕木。砲撃で落盤した土を運び出していた與座さんは、外に出る作業が1番危険だったといいます。

與座さん「上から米軍のグラマン(戦闘機)が飛んでくるし、黒い爆弾が落ちてくるのが見えた。ちょうど僕らのところにまっすぐ落ちてくる。これは大変だ!と、何もかも捨てて壕の中に入り込んだ」

一方、壕の中で軍のトップの姿を間近で見ていたという女性がいました。大嶺直子さん(94)は、炊事場もあったという壕で、司令官たちの身の回りの世話をしていました。

大嶺さん「炊事場から階段をのぼって、飯を運んで。そういうのが壕に入ってからの主だった仕事」

司令官たちは、大嶺さんを娘のようにかわいがってくれたといいます。

大嶺さん「牛島司令官はお優しい方でしたよ。もう本当に死にもの狂いで、みんな頑張っておられました」

◆追い詰められる司令部 若者の命が壕で奪われ…

首里を取られまいと凄まじい抵抗をする日本に、アメリカも苦戦。しかし、確実に司令部は包囲され、追い詰められていくのです。

雨のような爆撃の中、壕の外で作業をしていたのが、古堅実吉さん(91)です。

古堅さん「どこには弾が来る、どこには弾が来ないなどといった、そういうのはないからね」

古堅さんは、降り注ぐ弾の間をぬい、発電機を冷却する水を運んでいました。

古堅さん「同級生と2人で、おけで水を運んで、ドラム缶いっぱいになった途端でした。弾が飛んできて爆発して、光がパッて。彼(同級生)に(破片が)当たってしまったんですね。そしたら首の半分と肩の半分えぐられて、一言も、一声もなく、ぶっ倒れて即死です」

戦場にかり出された二十歳にも満たない若者の多くが、この壕で命を奪われました。

◆「陥落の時に降伏していたら、どれだけの命が…」

そして5月末、ついに首里は陥落。しかし司令部は、本土決戦までの時間稼ぎに南部への撤退を決断し、これが多くの住民を巻き込むことに。亡くなった住民9万4000人の、実に半数以上が首里陥落のあと命を落とし、司令部の自決で沖縄戦は事実上、終わりました。

司令官たちは自決する数日前、ある言葉を大嶺さんに残していました。

大嶺さん「『沖縄は、また春がめぐってくる。いま死ぬのはたやすいけど、死んではいけない、生き延びなさい』って。死んではいけないんだって、ほっぺた叩かれたみたいな思いで」

県民の4人に1人が犠牲となった沖縄戦。

古堅さん「その(首里陥落)時に『沖縄戦は降伏します』という段取りをとっていたら、どれだけの人の命が犠牲にされずに助かったかなと…」

多くの住民を巻き込む運命の決断がされた司令部壕。土砂に埋もれた戦跡は、今も静かに戦争の悲劇を訴えています。