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“核の番人”率いた天野氏 核不拡散の思い

2020年7月27日 14:09
“核の番人”率いた天野氏 核不拡散の思い

国際原子力機関(IAEA)の前事務局長、故・天野之弥氏の回顧録が、1周忌の命日(7月18日)に発売された。アジアから初めて「核の番人」と呼ばれる国際機関のトップに就任し、北朝鮮やイランの核問題など国際政治の中核で活躍した天野氏を長年取材し、個人的にも親交のあったウィーン在住のジャーナリスト・稲木せつ子氏が、その業績を振り返る。

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回顧録「世界に続く道」には、天野氏が8年近くかけて道を開き、IAEA事務局長ポストを勝ち取る経緯が書かれているが、私が同氏を取材したのは亡くなるまでの14年間だ。本にある逸話もいくつか直接聞いた事があるが、前半に綴られている経済的に不遇だった幼少時代の苦労話は、乗馬やヨットを趣味としていた天野氏からは全く想像もつかず、驚かされた。

病気を克服するつもりで筆を進めていたようで、急死を受けて出版された回顧録は、IAEAの事務局長に選出されたところで終わっている。

しかし、その内容は、同氏の事務局長時代の言動についても、深い示唆を与えている。

天野氏は事務局長時代に一度、確実に北朝鮮を訪問できるチャンスがあった。2012年に、北朝鮮はアメリカの食糧支援と引き換えに核実験を凍結し、IAEAの査察再開に合意した。IAEAは中国を仲介にして査察の復帰に向けて動き、天野氏にも招待状が届いていた。だが、直前に北朝鮮がミサイル発射実験を行ったため、アメリカは合意を反故にし、IAEAに対しても、査察の中止を求めた。一方、北朝鮮は、熱心に天野氏や査察官の訪朝を促していた。

米朝の政治駆け引きの材料となったIAEAだが、内部からは、長く査察を拒んでいた北朝鮮に行く意義を強調する意見もあり、天野氏は密かに渡米。ホワイトハウスの高官に対し、訪朝について掛け合っている。ホワイトハウス(オバマ政権)側は、査察官を送ることを内々に承諾したのだが、そのことが米国務省には伝わっておらず、天野氏は政治的な担保が取れないとして訪朝を断念した。合意が消滅した段階で、IAEA加盟国でない北朝鮮に出向く法的根拠もなくなっていたからだ。

この時の天野氏の決断は、IAEAの査察官の間では、評価が分かれるのだが、回顧録に綴られた天野氏の核不拡散への深い思いや、「ずるい」ことを嫌悪する信条が、「国際合意がなければIAEAは動かない」という決定をさせたのだと納得がいった。その後のイラン核合意の交渉でも、各国の意見をまとめるため黒子に徹して貢献している。

原子力技術を加盟国の発展のために活用しようとした情熱も、回顧録を読むとよく理解できる。IAEAには創設以来、3つの大きな責務(核不拡散、原子力安全、技術移転)があるが、天野氏は選挙活動をしている時から「核不拡散と発展のための平和利用」に重点を置いていた。

就任後、最初に立ち上げたプロジェクトはがん治療の途上国支援だった。天野氏の在任中、IAEAはエボラ熱などの疫病対策や環境問題にも取り組み、技術支援の範囲を広げたが、ここには理系(東大理II)に進学した天野氏の科学への造詣と、早くに身内をがんで失った悔しさが込められている。

天野氏はIAEA事務局長に就任後、アイゼンハワー大統領が作ったIAEAのモットー「Atoms for Peace(平和のための原子力)」を「Atoms for Peace and Development(平和と『発展』のための原子力)」に変えている。生存中に建設を進めたウィーン郊外の原子力技術の研究施設は、ことし6月に完成し、「ユキヤ・アマノ研究所」と命名された。改めて、惜しまれて亡くなった天野氏に触れる好機会となった。(ウィーン在住ジャーナリスト・稲木せつ子)