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“拉致と呼ぶと会えない”全てを奪われた母

2019年12月20日 16:20
“拉致と呼ぶと会えない”全てを奪われた母

もし、あなたの子どもが突然、いなくなり、見知らぬ国で、生活していたら――寺越友枝さん(86)は子どもを守るため、「拉致」という言葉を封印しました。

友枝さん「親としてずっと武志を守ってやりたいから、拉致の認定は今は考えていません」

55年前、中学2年の息子・武志さんは叔父とともに突然、姿を消しました。24年後、海で亡くなったはずの叔父から「とつぜん朝鮮に来て(中略)幸福に暮らしております」との手紙が―

友枝さん「(武志が北朝鮮に)おるなと思って(政治家に)働きかけた。どこに行っても、国交がないもんで」

手紙が届いてから、半年余り…

友枝さん「死んだとばっかり思っていたのに良かった。生きとってくれて」

13歳だった息子は37歳になり、金英浩(キム・ヨンホ)と名乗っていました。

友枝さん「『(叔父が)海から落ちて、知らん船が来て助けてもろた』って、『武志に本当か?』と聞くと、『俺、眠っていて知らん』と言って」

武志さんは現地で結婚し、子どももいたため、日本に連れ戻すことは、叶いませんでした。

友枝さんは「家族会」の活動に加わり、武志さんの帰国に向けて動き始めます。しかし、息子からは――

友枝さん「『お母さん、家族会に入っていたら俺と会われんようになるよ』と。私は、やっぱり、我が子が会えないようになるという言葉で(家族会から)離れた」

友枝さんは、自ら武志さんに会いに行く道を選びました。

友枝さん「働いた、働いた、働いた、年金も使わずに、年金貯めて、貯めて、貯めては…」

北朝鮮に1回行くたびにかかる費用は数十万円。拉致問題が大きく動いたこの年、武志さんは訪日団として、39年ぶりに祖国の地へ。

武志さん「敬愛する金正日将軍のご配慮により訪問団の一員として来日しました」

日本での第一声は、朝鮮語。しかし、親子の会話は日本語でした。訪日団という立場の武志さんは、予定通り母国を後にします。

友枝さん「武志もこのこと(拉致)だとは、やはり言われんということは苦しいと思います。私も苦しいです本当に」

友枝さんが訪朝した回数は65回。息子と、その家族を援助するため、向かう時には、衣類や食料品を詰め込めるだけ、詰め込みます。

係員「3キロオーバー、(荷物を)抜きますか?」

友枝さん「お金出すわ、荷物抜かれん」

武志さんの月給は、日本円で500円ほど。訪朝するたび、お金や電化製品がほしいとせがまれました。3人の孫の結婚費用も、友枝さんが援助しました。

武志さん「お母さん、65回、俺のために朝鮮に来て行ったり来たりしながら、たくさん世話になって本当にすみません」

84歳になった友枝さんは、体調を崩すことが多くなりました。

病床からの友枝さん「武志、お前にあげたくてもあげられないからな、自分でちゃんとしとらなダメやぞ、ばあちゃん、もう(仕送りを)できないから」

生き別れの苦しみ。

友枝さん「春になったらお前の所に行きたいわ」


※2018年1月放送、テレビ金沢で制作したものをリメイク
※年齢などの情報は2018年1月時点のものです。


【theSOCIAL×NNNドキュメントより】