車椅子バスケ“遅咲き”が覚醒した日3/4
車椅子バスケットのリオデジャネイロパラリンピック日本代表・千脇貢選手に聞く「飛躍のアルゴリズム」。3つ目のキーワードは「32歳という遅咲きの日本代表入り しかし、一時は引退を考えたことも…」。引退を踏みとどまり、見事代表入りを果たしたその背景とは。
■「もうこの業界からは引退しようかな」
――まさかの32歳という年齢ですが、本当に激しい肉体的なスポーツということで、やはり“遅咲き”なんでしょうか。
そうですね。かなり遅いと思います。
――それまでにはどういった経緯があったんでしょうか。
自分自身、初めて代表に呼ばれたのが、北京のパラリンピックが終わってからになるんですね。その段階で30~40人くらい集めて12人に絞っていく一次選考で落とされるっていうのがありましたね。
――その後はどうだったんですか。
2年間ぐらいは、一次選考には呼ばれてはいたんですけれども、2010年頃からはもう一切、呼ばれなくなりましたね。
――せっかく夢中になれるものを見つけて自分も変わろうと頑張っている中で、悔しい思いもあったかと思うんですけども、何が足りなかったんでしょうか。
やはり、今思い返してみれば、ひとつひとつの技術や、体力づくりっていう部分では、かなり劣っていたと思います。
――ロンドン大会の直前では、そもそももう一次招集すらも呼ばれなくなったとお話がありましたが、その時はどんなことを考えたんですか。
それこそ、「もうこの業界からは引退しようかな」という思いは、少しはありましたね。
■“和”が一番重要
――でも、何が引退を踏みとどまらせたんでしょうか。
リオの時のヘッドコーチが及川晋平というんですけれども、彼がよく声をかけてくれて、踏みとどまらせてくれたというのはあります。
要は、自分の長所っていう部分を再度確認させてくれたり、「その技術を日本代表にいかしてほしい」という声かけをしてくれたので、自分のモチベーションもかなり上がって、より一層、競技に励むようにはなりました。
――それまでのご自身のプレースタイルやメンタリティーは、及川監督と出会ってから何が変わったんでしょうか。
それまでは、“個”というのは強かったですね。ただ、バスケットは団体スポーツになるので、“和”が一番重要だということを彼が気付かせてくれましたね。
――そして引退も踏みとどまり、32歳で日本代表入りとなります。最初からこの代表入りは念頭にあったんですか。
チームに入った時に、もう日本代表の現役の選手は居たので、「日本の代表に入る」というのは身近にはありましたね。
■世界を体験…得たものは?
――実際にリオパラリンピックに出場して世界を見て、何か考え方など変わった部分はありますか?
フィジカルがまだまだ足りないなっていうのは感じますね。ここぞっていう時には、彼ら(海外の選手)はシュートを落としてこないし。ここぞっていう時には、かなり高いフィジカルでこちらを蹴散らしてきますので。
――精神力とかでもやっぱり違う所があったりするんですか。
メンタル的には、なるべくいつも通りっていうのを心がけていますね。いい緊張感を持って臨むという姿勢です。
――そして、そのリオパラリンピックの後、すぐにドイツでもプレーされていますが、そのドイツでまた感じたことや、見えた景色はありますか。
リオ後のドイツは2シーズン目になるんですけれども、彼らとやるっていうのは、かなり自分の中で大きいですね。
なぜかというと、まずいろんな国の人間が居て、彼らは国に帰ればそれこそ代表の選手だったりもします。それが相手チームにもいますので、常に国際試合のような感じになるので、自分自身が国際(世界)と戦うためのプレーヤーになれるっていうのが一番大きいですね。
■2020年東京大会への思い
――国際大会という意味では、視線の先に2020年東京大会はあるんでしょうか。
とにかく、いま自分が思うことは、まず1試合1試合を戦っていくだとか、合宿によっては1日1日を大切にやっていくっていうのがありますが、その先には必ず“2020”はあると思っています。
――その頃は39歳になられますね。ずばり、自信のほどは。
頑張りたいと思います。