×

箔一・浅野氏「夢から逃げない」経営術 1

2016年11月17日 17:56
箔一・浅野氏「夢から逃げない」経営術 1

 キーワードを基にビジネスのヒントを聞く日テレNEWS24・デイリープラネット「飛躍のアルゴリズム」。今回は、株式会社「箔一」の代表取締役会長・浅野邦子氏。専業主婦から起業し、経団連役員に起用されるまでの波瀾万丈の人生に迫る。


■経歴

 1967年に金沢にある銀箔を製造する箔(はく)屋の四男に嫁ぐ。しかし、オイルショックで夫の会社の業績がダウン。

 浅野氏自らが金沢箔を前面に出した商品を作るべく、1975年に「箔一」を創業。その後は、あぶらとり紙を商品化して特許を取得。事業の多様化を進める。

 2009年に社長を息子に引き継ぎ、自身は代表取締役会長に就任。また今年、“中小企業の女性経営者”としては初めての経団連の役員にも就任している。


■素材からブランドに

――1つ目のキーワードは「箔屋に嫁ぐも、オイルショックの煽(あお)りで夫の事業は大打撃。ならばと、自ら職人の技術を学び見よう見まねで開発」。まず、オイルショックで事業に打撃ということですが、具体的にはどういう状況だったのでしょうか?

 金沢の箔業界というのは、金箔とか銀箔とか色々あるんですけど、みんな素材なんですね。今までは、箔は素材産業ですので何かのブランドに名前を変えないと付加価値ができない。材料ですから。

 例えば、三河の仏壇に変わると三河仏壇とか、京都の工芸品に変わると京都の漆器とかね。だから、金沢箔っていう名前がどこにもなかった素材産業だったんです。


――それで“金沢箔工芸品”というものを商品化したいということで、やってらしたということなんですけど、金沢箔工芸品として箔一さんで販売している“平安盆”は、金箔が主役ですね。他の商品も金箔が全面に出ています。

 実は、これは本金の金箔ではなく、銀と真鍮(しんちゅう)なんですね。銀箔と真鍮しか変色しませんので。京都なんかでは、着色っていう技術はあるんですが、変色させるのは当社しかないんです。


■漆器の職人技術を学び商品開発

――そうなんですね。それにしても、このように商品を作られたときに一からやられたということですが、どのような経緯だったんですか?大変だったんじゃないですか。

 それまでは、さっき言いましたように素材産業ですのでね。金沢箔のブランドがどこにもないというのが気になりまして、「金沢の人が金沢から作って発信したものを金沢箔工芸品としよう」と考えまして、やり始めました。


――そのときに全く製造の知識とかなかったわけですよね。どのように技術を得たんでしょうか。

 実は、箔を納品する一番近いところに山中漆器があったんです。山中漆器を見ていきますと、やはり“山中塗り”となっていました。金沢箔というブランドがどこにもついてなくて、「悔しい!自分でちょっと何か作ってみよう」と思って、技術をちょっと盗みに行ってた(笑)。そんな感じですね。


■販売に苦戦…他の地で地道な努力

――その後、商品化されて販売というのは、地元金沢から行ったんですか。

 そうですね。金沢から始めましたけど、当時は金箔とか銀箔も高級品に使われてました。私は、金沢の箔に汎用性を持たせたかったもので、誰でも使える、日常で使い勝手のある工芸品にしようと思いました。

 ですが、金沢でやっていますと、こういう伝統の中の日常雑貨のものはどうしても受け入れられませんでした。「家庭用品なら隣のおじさんもお姉さんも結婚式のときに使ってくれる」とか、そう思ってましたからね。


――ということは他の地に販売に行かれたと。

 そうなんです。ずっと地元でやってますと、やはり伝統を汚すということで。だって箔は高級品ですから。それで、よその地へ行こうということで。

 京都は、箔屋さんにお嫁に行ったから“玉のこし”にのっていると安心してましたから、まず大阪、それから全国へずっと。


――大阪の百貨店めぐりもされたということなんですけども、お1人で行かれたんですか。

 そうですね。大阪は、その当時は山中漆器として色々あったんですが、私は金沢箔工芸品という前例のないものですから。「こういうのはもう受け入れられん」ということでしたね。


――ボストンバッグにご自分が作った作品を詰めて、アポなしで大阪の百貨店を回られたということなんですよね。ものすごい精神力ですよね。

 いや、素人だったから…違うかな。普通の人だったら怖くてできない(笑)。


■素材産業が故の“次の一手”

――ですが、そこでなかなか受け入れてもらえずにどうされたんですか。

 受け入れてもらえなければ、何度も行きましょうと。それと、やっぱり金沢の箔は、これから地場の産業になると思ってましたものでね。逆に言うと、地場の産業を活性させるためにも金沢箔というブランドを築くということと、製品を全国に持って歩くことによって、「金沢箔のブランドがある」と。

 これは、素材産業であるが故の“次の一手”だと。私は将来のことを思っておりましたので。


――その努力でじわじわと広がって、商品として販売できるようになったんですか。

 どこのデパートへ行っても無理でした。だけどもやはり、自分が思ったこと、夢は絶対にかなえようと思ってましたから。でも、金沢の1万分の1に伸ばす箔の技術は金沢だけのものですから、絶対に大丈夫と思ってました。