生還者語る…“アウシュビッツ”解放70年
70年前の27日、現在のポーランドにあったアウシュビッツ強制収容所が連合軍の手で解放された。ナチス・ドイツによって600万人もの人が殺害されたといわれる「ユダヤ人大虐殺」を象徴する場所。
当時の様子を知る人々が高齢化する中、「人類史上最悪」の虐殺の記憶をどう語り継ぐのか。収容所から生還した男性に話を聞いた。
ポーランド南部にあるアウシュビッツ強制収容所では23日、解放から70年を記念した追悼式典の準備が進められていた。
ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺の象徴であるアウシュビッツ。第二次世界大戦当時、ユダヤ人や捕虜などがヨーロッパ全土から100万人以上、送り込まれた。
アウシュビッツは、現在は国立の博物館として保存されている。第一収容所のゲートには、「働けば自由になれる」との文字が。しかし、連れてこられた人のほとんどがここで命を奪われた。
薄暗い窓のない部屋。シャワー室にみせかけ、天井から毒ガスを投入し、一度に多くの収容者を殺害するために造られた。
ガイド「彼らは全員が確実に死ぬまで30分は待ちました。ガス室の扉が開いた時、生存していた人は銃殺されました」
収容者の生活スペースだったバラック群には、当時の資料が展示されている。毒ガスの原料の缶の他、遺体から奪ったカバンやメガネ、兵士の制服などに使うために刈り取られた髪の毛など。さらには、山積みになった子ども用の靴も。子どもたちは労働力にならないと判断され、到着後すぐにガス室に送られたり、人体実験の実験台などにされたりしたという。
アウシュビッツでは110万人が殺害されたともいわれている。
ポーランド・ワルシャワで、当時を知るステファン・ソトさん(84)に話を聞くことができた。
13歳の時、突然自宅にドイツ軍がやってきたという。
ソトさん「(ドイツ軍は)ワルシャワ西駅へと我々をせき立てました。何の説明もありませんでした」
「政治犯」のぬれぎぬを着せられ、ユダヤ人ではないソトさんも母親らと共にアウシュビッツへ送られ、約5か月間過ごした。
ソトさん「殺りくは毎日行われていました。囚人たちは毎日ベッドに入る時、そして起床した時、命があることを神に感謝していました」
あの忌まわしい記憶から70年。ソトさんは、アウシュビッツに向かった。
貨物列車で連れてこられたというソトさんは、暗く不衛生な宿舎で、棚のようなベッドに押し込められ、食事も満足に与えられず、重労働を強いられたという。
ソトさん「(他の収容者が)『君たちが自由になるのは、あそこ(焼却炉)の煙突を通ってからだ』と。生きてここから出られるとは思っていませんでした」「食事なんて言えない、最低なものでした。家畜の豚の方がましなものを食べていたでしょう」
何とか生き残り終戦を迎えたソトさんは今、ある使命を感じている。
ソトさん「歴史は歴史です。私たちが伝えなければ、誰が伝えられるのでしょうか」
語り継がれるアウシュビッツの記憶-。しかし、当時、生き残った人も年々減少している。
そこで、アウシュビッツでは歴史を風化させぬよう取り組んでいる。英語、ロシア語、日本語など19の言語に対応できるよう外国人ガイドを起用している。また、修学旅行なども積極的に受け入れ、若い世代の教育にも力を入れている。
追悼式典の3日前、当時、“加害者”だったドイツから、アウシュビッツに50人余りの学生たちがやってきた。
見学が始まると学生らの表情は一変した。彼らの祖父母の世代にこの悲劇は起きたのだ。
学生「実際の現場に来ると、すごく胸が痛みます」「戦後世代として、この記憶を継承し、議論していくことが私たちの責任だと思う」
悲劇の記憶を未来へと語り継いでいく取り組みが続いている。