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戦死の大叔父、最期の地は…グアム戦を知る

2014年8月1日 11:21

 日本は来年、太平洋戦争の終戦から70年を迎える。終戦前年の1944年には、日本から2500キロ離れたマリアナ諸島・グアムで激しい戦闘があり、日本兵2万人が死亡した。グアムを先月26日、ある特別な思いを持った日本人女性が訪れた。

 常夏の島、グアム。年間90万人以上の日本人が観光に訪れ,一年を通じて多くの人でにぎわっている。グアム・ニミッツヒルで先月26日、日本人戦没者と、戦火に巻き込まれた住民の慰霊祭が行われた。

 日本人慰霊祭の会場となったのは、かつて軍司令部だった防空壕(ごう)があった場所。日本からの参加者や、地元の人々が出席した。この中に、ある特別な思いを持ってグアムへ来た女性がいた。

 「こういった慰霊祭に参加できたことを、大変うれしく思っています。こんなに盛大にやっていただいて、皆さんに感謝したいと思います」と話す木原利枝さん。大叔父・忠雄さんが、1944年にグアムで戦死している。

 木原さん「(以前まで)本当に観光で遊んで帰っていたんですけれど、サイパンを訪問したのがきっかけで、グアム島で大叔父が亡くなっているということで」

 忠雄さんは、木原さんの祖父の弟。木原さんが生まれる前に25歳で戦死した忠雄さんのことを、木原さんは「小さいときから遺影を見ていた」という。

 グアムには、現在も日本軍の大砲や戦車といった戦争の爪痕があちこちに残されている。1941年12月、真珠湾攻撃の直後から日本はアメリカ領だったグアムを攻撃し、12月10日には日本の領土とした。島を「大宮島」と改名し、島の住民たちに厳しい労働を強いるなどして多くの犠牲者を出した。

 しかし、その後、アメリカ軍が反撃に出て、1944年7月21日にグアム島に上陸、激しい戦闘の末、島を奪還する。厚労省は、グアムでの日本人戦没者は約2万人としている。

 木原さんは2012年まで、忠雄さんがグアムで戦死したことを知らなかった。

 木原さん「サイパンに旅行に行った際、ガイドの説明で『家族の知らないまま南(の戦地)へ行っている方も多いんですよ』(という説明で)驚きを持って。私の家族、先祖がそういう所に来ていると思っていなかったですし。戦争に行っているのは知っていましたけれど、追究したことはなかったです」

 忠雄さんの墓石には東南アジアの「マレー方面で戦死」と刻まれていたが、気になった木原さんは県庁などに残る記録を集め、忠雄さんと同じグアムから生還した人が書いた本にたどり着いた。そこには、忠雄さんが「1944年8月15日に、太郎川上流で戦死」と書かれていた。その後、書かれていた日付を頼りにアメリカ側の資料を探したところ、去年、忠雄さんが死亡した場所がほぼ特定できた。

 木原さんは今回、慰霊祭に先立ち、忠雄さんが眠る地へと向かった。そこはグアムの中心部から車で約40分の島の東側、植物が生い茂る川沿いだった。

 木原さん「今はとても平和な感じの所になっていますけれど、その当時はどうだったんだろうなというところですね。日本兵ももちろん亡くなっていますけれど、現地の方々とかアメリカの方も多く亡くなっていますので、大叔父だけでなくて、皆さんに対してご冥福をお祈りする」

 木原さんは一つ一つの手がかりを積み重ねて忠雄さんの「戦死の真相」を知り、これをきっかけに70年前にグアムで起きた出来事も知ることになったということで、「戦争を忘れるのではなく、今後に伝えていかなくては」と思いを新たにしたという。

 多くの犠牲者を出したグアム戦から70年。戦争の犠牲になった人々の「声なき声」に耳を傾ける努力が続けられている。