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天安門から25年 今も慕われる元指導者

2014年6月20日 17:21
天安門から25年 今も慕われる元指導者

 天安門事件から25年の節目を迎え、厳戒態勢が敷かれた中国・北京。厳しい締め付けが行われる一方で、当時、学生らを支持し失脚した国家指導者を敬愛する声は今も根強く残っている。

 天安門事件から四半世紀の節目を迎えた北京の天安門広場。多数の警官が配置され、厳戒態勢が敷かれた。中国国内では、事件について論じることは“最大のタブー”とされ、国内メディアは一切報じない。外国メディアが事件について報じると、中国国内では即座に放送が遮断された。25年前、共産党総書記だった趙紫陽氏は、民主化を求め広場に集まっていた学生らに理解を示し、軍の動員に反対したことで失脚に追い込まれた。その後、鄧小平氏率いる共産党指導部は武力での鎮圧を決定。多数の死傷者を出す惨事へとつながった。

 今年4月、中国でお墓参りを行う清明節の節句では、北京市内にある趙紫陽氏の自宅前に多くの人が追悼に集まった。天安門事件以来、2005年に死去するまで北京市内の自宅に軟禁されていた趙紫陽氏。公に趙氏を評価することは許されていないが、多くの市民はいまだに趙氏を敬愛していた。

 今回、カメラは趙紫陽氏が住んでいた家の中に入ることを許された。趙氏が生前過ごしていた部屋。執務机の上には、全人代(=全国人民代表大会)で使っていた筆記用具などもそのまま残されていた。趙紫陽氏の長女、王雁南さんは、当時の様子を「部屋の配置は、大体元のままです。ソファに座ってテレビを見ていました」「晩年、酸素マスクをつけていたので、その結び目で凸凹のあとが残っています。酸素マスクのあとです」と説明してくれた。

 生前、事件当時のことを家族にもほとんど語ろうとしなかったというが、我々が取材中にも、次々に趙氏を慕う人々が訪れ、花束を手向けていた。追悼に訪れた広東省の住民は「私は深センから来ました。河南省の出身です」「私の亡き父は趙紫陽氏を非常に尊敬していました」と話す。中には、地方から政府への不満を訴えるため上京した陳情者の姿もあり「あの時、趙紫陽総書記は、天安門広場にいた学生たちに直接向き合いました。今の官僚たちは庶民たちに向き合おうとしていません」「だから、趙紫陽総書記のことを心の底から慕うのです。命日、清明節には必ず来ます」と語った。

 趙紫陽氏はこの部屋で軟禁されている間、密かに録音を残していた。後に、関係者が香港に持ち出し公開した音声には、天安門事件当時の苦悩がこう記録されている。

 「どうしたら処分される人を増やさず、人を傷つけずに済むかということは、私が当時直面していた最も悩ましい問題だった」「1つの国が現代化を実現しようとしたら、市場経済の実行だけでなく、議会民主制などの政治制度が絶対に必要になる」

 中国共産党の総書記の地位にあった趙紫陽氏自らが、共産党の一党独裁体制を変える必要性を訴えていたのだ。

 四半世紀の節目となる今年。市内全域に大量の警官を配備し知識人らを拘束して、体制の動揺につながる動きを力で押さえ込んだ習近平指導部。しかし、拡大する所得格差や腐敗などへの民衆の不満は、水面下でくすぶり続けている。