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風化しつつある「小田原空襲」を伝える人々

2011年8月13日 21:09
風化しつつある「小田原空襲」を伝える人々

 45年8月15日、終戦当日も各地でアメリカ軍による空襲があった。その一つである「小田原空襲」を伝える人の思いを取材した。

 第2次世界大戦末期、神奈川・小田原市内では空襲が相次いだ。終戦を告げる「玉音放送」の約半日前である45年8月15日未明にも空襲があった。小田原駅東側の市街地に落とされた焼夷(しょうい)弾により、約400軒が焼失、12人が死亡した。13歳でこの空襲を体験した相原俊夫さん(79)は「しばらく落ち着いて自分の家の方を見たら、もうとにかく真っ赤で」と話す。

 小田原空襲を伝える資料は少なくなり、終戦当日の空襲については、空襲を風化させないために住民が作った碑の他は、ほとんどが体験者の証言だけとなっている。また、終戦2日前、市内の蓮上院が空襲を受けた際、院内に大きなくぼみが残った。

 小田原市本町にある「旧本陣脇本陣合同古清水旅館資料館」。建物は江戸時代から営業していた旅館(08年廃業)で、現在は旅館の歴史を紹介する資料館の一部として保存されている。建物内部の階段と廊下には、空襲による焼け焦げた跡があり、小田原空襲の唯一とも言える痕跡となっている。

 資料館を運営する清水修一郎さんは「(小田原空襲があったことを)残していかなくてはいけないと思い、形にした。多くの方が亡くなって、空襲が実際にあったということに目を通してもらえればいい」と話した。